自分のこと、好きですか。
私は、かつて自分のことが好きではなかった。
でも、自分で、自分が好きではないとは、あまり自覚していなかったかもしれない。
なぜ、自覚したのかというと、それは友達が欲しかったからだ。
私には、友達がいないと思っていた。
友達に対するハードルが高いのかもしれない。
友達だったら、どんなことも話せるはず、相談し合えるのではないか。そんな薄い思い込みもある。
もしくは、学生時代の親友と、疎遠になってしまったからかもしれない。
女性というのは、ライフサイクルによって、全く価値観の違う関係になってしまったりもするのだ。
それはそれで、お互いがお互いの人生を懸命に生きてきた、ということなのだから切ない。
たまに仲良く喋れる人はいる。
まぁまぁ、人付き合いもできるし、割と人が好きな方かもとも思う。
だけど、気を遣ってしまって、気楽にいつでも付き合えるという感じではない。
要するに、私が、自分を隠しているから、自分を作って付き合う関係ばかりで、疲れてしまう。
とにかく、友達が欲しいと思った私は、ある人に相談した。すると、
「友達が欲しいなら、自分を好きになることだ。自分とまず友達になることだ。」と言った。
え?
でも、その時、考えてみたのだ。
私は、私と、友達になりたいか?と。
残念なんだけど、私はその時、私とは友達になりたくないよな、と確かに思ってしまった。
その時、私って、私を好きじゃないんだな、とはっきりと自覚した。
私は、友達づくりよりも先に、まず自分と仲良くなることが必要だった。
自分を好きになるって、どうしたらできるんだろう。
私は、まず、やりたくないことを、なるべくやらないようにした。
不満に思っていたことを、口に出した。
脱ぎっぱなしの靴下を拾って歩くのは好きじゃない。やりたくない。やってくれ。
私ばっかり、家にいて、自由がない。つまらない。出かけたい。
これ、言えるだけでも、違う気がする。ちょっとスッとする。
自分の気持ちを、押し殺して我慢してきたのは、思っていた以上に辛いことだったのだなとわかった。
私は、自分さえ我慢すれば、いつか時が解決してくれると思っていた。
いつか、子供達が自立したら、自由を謳歌したらいい。
でも、そんな日を迎えられるかどうかも定かじゃない。
大切なのは、今を生きることだった。
私は、誰かとぶつかることを避けていただけだった。
誰かと違う意見になり、それをぶつけ合うことを恐れていた。
私はずっと、「事なかれ主義」だった。
衝突することが嫌で、意見の違いを言い合うことも喧嘩と思っていたし、誰かと真剣に意見の違いを建設的に話し合うということも無かったかもしれない。
育ってくる環境の中で、安心して意見の違いを話し合う、という場面がなかったのかもしれない。
今思えば、「誰かと違う意見を出し合って話し合う」というのは、根底に、「自分への信頼」と、「他者への信頼」がないと成立しない気がする。
私には、そのどちらも無かった。
私の場合は、振り返ってみると、まず、夫や子供という、信頼できる存在に出会えたことがラッキーだ。
彼らに対しては、本心を話しても大丈夫だという絶対的な信頼がある。
そこから、本音を出していくうちに、自分という存在の本当の輪郭も感じるようになった。
そして、その本来の私は受け入れられ、ここでは、ただの自分でいられた。
私という存在が否定されない関係の中で、私は培養されていった。
だけど、これって要するに、私は、他人軸で生きていたんだなと思う。
他人から見て、自分が受け入れられるなら、自分は自分を受け入れられる。
自分への評価すら、他人目線だった。
そして、自分目線を取り戻すこと。
自分の人生を、自分で生きることを思い出す時がきていた。
もう、自分の人生のハンドルを、誰かに渡したらいけない。
自分がやりたいことと、やりたくないことを表明していくことは、自分を大切に扱うことで、自分を守ることだ。
それによって、自分への信頼は少しずつ積み上がり、いつの間にか自分を好きになっていった。
そして今、だんだんと、自分という存在を、いつでもどこでも同じ顔にしたいなと願うようになった。
違う顔を作ることに、もう疲れたのだ。
いつだって、本当の私で生きていたくなった。
本当の私で生きることを止めるのは、「ジャッジ」と「恐れ」だと思う。
こんな私では、嫌われてしまうかもしれない、という恐れ。
「こんな私」という、何かに対する自己評価。
どんな自分も、そのまま受け入れて、開き直って、扉を開けて見せてしまう。
掃除が好きじゃなくても、隠さず見せてもいい。
そして、それでも一緒にいたいと思う人が残っていく。
嫌われないための努力をやめて、扉は、いつでも開けられる状態を作っていたい。
私は今、自分の人生を取り戻す旅の途中にいる。
家族は「友達」だと思っているし、今では、「私」は、一番の自分の友達だ。
日々、仲良く話をさせてもらう人たちのことも、心の中ではお友達だと思っている。
そして、それを確かめる必要もない。

