私は、誰かと付き合うときに、無意識のうちに「自分と吊り合うかどうか」を気にしていることがわかった。
私には、とても素敵なママ友がいて、そのママ友の最近の様子を夫に話したら、「セレブだね〜」と言われた。
多分、言った夫は、それ以上に何の感情もないのだと思う。
ただ私は、それまで気にしていなかったのに、急に「あれ?」と心がザワザワすることになった。
たしかに彼女たちは素敵で、そういう意味で言えば、我が家は普通でありふれている。私は、何者でもない。
彼女たちがセレブだとしたら、私たちは庶民。
彼女は、そんなこと考えていないだろうが、もしかしたら考えているのかもしれない。それは私には知る由もない。
「もしかしたら、もはや私たちは、吊り合っていないのかもしれない?」
その言葉は、心の奥の方に、じわっと湧き起こる。
直視するには、多少の傷がともなうかもしれないから、じわっと湧き上がって、言語化するかどうかは自分で選べる。
その程度の存在感と違和感として、私の中に現れた。
私たちは、吊り合っていないのか
その違和感を、私は見つめてみた。
果たして、私たちは吊り合っていないのだろうか?
考えた末の結論がこれだ。
「吊り合っているかどうかを考えている私は、自分の価値を軽く考えているし、相手にも失礼だし、そもそも、その関係性を本当には大切にできていない。」ということだ。
吊り合っているかどうかを気にしているということは、
「私は、相手に何か有益なことをあげられるのだろうか。私と過ごしても楽しくないのではないか」
を気にしているのであり、そして同時に、もっと恐ろしいのは、
「私は、この関係から、何かを得たいと期待している」
という感情も、無意識のうちに、セットだと思うのだ。
それって、損得勘定じゃないのか。
無意識とはいえ、そんな損得勘定で関係性をはかってしまっていることに気づいて悲しくなる。
そもそも、吊り合うとは何だろう
似たような収入の家庭とか、
似たようなステイタスの仕事とか、
子供の学校が似たようなレベルとか、
そういう人となら、付き合うのに値する?
その方が、話があうから?
いや、それは、なんて窮屈な考え方なんだろうと思う。
仮に、ママ友が豪華な旅に行くことで、吊り合わなくなる関係だとしたら、それはお互いに窮屈ではないか。
そうなると無意識に、仲の良いママ友は、自分と同じ程度の生活レベルでいてほしいと願うだろうし、それは相手を縛り、自分も縛られることになる。
依存になりやすいし、排他的にもなりやすい。
逆に、自分の方が裕福だと思える人との関係性に安心を覚えるとしたら、それはなんて傲慢なんだろう。
「吊り合うかどうか」に隠された心の癖
「吊り合っているのか気になる」という心理に隠れている本当の意味は、「人と自分を比べていますよ」という心の癖なのだ。
人と自分を比べることは、苦しみを生み出してしまう。
人と自分を比べても、そもそも、あまりいいことはない。
人と自分との違いを、ただ見つめるだけならば問題ないが、私の場合、そこにはジャッジがついてくる。
「あの人はこういう点で素晴らしく、それ故に、私はあの人よりも劣っている。(→だから、吊り合わないかもしれない)」
「こういう点については、あの人よりも、私の方が頑張っているかもしれない。(→だから少しは吊り合うかもしれない)」
いや、全然、違うのだ。
吊り合うかどうかを気にしてみたところで、
人と自分を比べてみたところで、
そこに、私がのぞむ関係性はないということに、ようやく気づきはじめた。
私は、こんなにどうでもいいことを、ずっと気にしてきたのだ。
こういった「ジャッジ(批判、評価)」は、関係性を縮ませていく。
人と付き合う時に、大切にしたいこと
私は、今、その素敵なママ友と、「吊り合わない」とは思わない。
その定規を使うことをやめた。
吊り合うかどうかを比べることで、自分を低く見積もることもやめたし、
自分と比べて、相手を高く感じて距離をつくってみたり、逆に低く判断することも、しない。
だからといって、誰とでも同じように親しく付き合えばいいとも思っていない。
人間関係の濃淡や、好き嫌いというものは、一定程度あっていい。
そんなとき私は、「相手と自分が吊り合っているか」よりも、「相手をリスペクトする気持ちがあるか」を大切にしたいと今は思う。
私は、私がリスペクトする人と付き合いたい。
私がリスペクトする人を、大切にしていきたい。
相手からもリスペクトされる人間になりたいとは思うが、相手が私をどう思うかは私にはどうすることもできないし、それは相手の自由なのだ。
ここまで考え続けて、ふと、昔なにかで読んだ、叶姉妹の叶恭子さんの言葉を思い出した。
たしか、「友とは、その人が困っている時に、自分が何かをしてあげたいと思う人」といった内容だったと思う。
それを読んだときには、一瞬、頭の中が「?」となったが、今ではその意味が理解できるようになった。
友というのは、
相手が自分を友だと思っているか、ではなく、
ましてや、「私たちって友達だよね」と確かめ合うのが大事なのでもなく、
「私が、その人を大切に思っているか」が、一番、大事なのだと思うようになった。
そしてここまで考えてきて、わかった。
私は、最初に話したママ友のことが好きだし、彼女がなにかで困っていたら、助けにいきたい。
そう、私は彼女を、友達だと思っているのだ。
だから私は、この関係を大切にしたいと思う。
それだけで充分なのだ。

