ジャッジすることをやめようとした私が、最後にたどり着いた恐れ

気付いたこと/手放したこと

今朝、私は、夏休みの子供達と夫をあちこちに送り届けるために、時間に追われて焦っていた。

そんな時、また自分に「手放したい感情」があることを教えられる出来事がおきた。

今日も無意識に、人をジャッジしていたのだ。

私はそこから、「ジャッジしないとはどういうことなんだろう」と自分に問い続けた。

そして、その先で、もっと深い部分にある「恐れ」に気づくことになったのだった。

その時の状況を書き留めておきたいが、うまく表現できないかもしれない。が、それでも残そうと思う。

今日は、夫と子供2人が、それぞれ違う場所にいく予定で、車で送って行こうとする私は慌しかった。

夫は仕事で駅まで、下の子はスイミングスクールで、上の娘は図書館で、それぞれ少しずつ時間がずれる。

夫を8時20分頃に駅まで送り届けて、家に帰って8時40分には、スイミングスクールに行き、すぐ家に戻り9時過ぎに図書館に向かうタイムスケジュールを頭に描きながら、まずは夫を乗せて駅までの道を進む。

駅の近くには、私と同じように、誰かを送ってきた車が、路上駐車していることが多い。

私は、それが迷惑だなぁと思うから、駅前の無料のロータリーまで車を入れるが、それを面倒に思う人もいるようで、ロータリーに入らずに、通行量の多い道路にそのまま一時停止するのだ。

いつもは、そういう車はスルーして、でも私は誰かの迷惑にならないようにロータリーに入る。

それが今日は、路駐している2台を追い抜こうとしたら、突然、そのうちの1台が発信してきて、非常に危なかった。

この時点で、若干イラっとしながらも、無事に夫を駅に送り届けて、急いで家に戻る。

その帰り道だ。

横断歩道のない場所で、子供2人を連れたお母さんが、いきなり目の前の道を渡ろうとしてきた。

そのお母さんは、申し訳なさそうな目でこちらを見てきたが、いやいやいや、違うだろう、と。

この時、私は咄嗟に、

「バカだなぁ」

と思ってしまった。

そのお母さんを見て、本当に心から、バカだなあ!と思ったのだ。

お母さん、あなただけならまだいいよ。

私が怖いのは、子供達の方だよ。

あなたと一緒に渡るのなら、子供も大丈夫かもしれない、

でも、本当に怖いのは、子供が、自分1人でもそういう渡り方をしていいと思うことなんだよ。

子供が1人の時に、同じように横断歩道のない道を渡ろうとして、その時に通る車がそれに気づかない可能性だってあるというのに、どうしてそういうことを子供に教えるんだろう。

どうしてあなたは、目の前のことしか見てないんだろう。

というようなことが思い浮かんでしまうから、一瞬にして、そのお母さんのことを「バカだなぁ」と思ってしまったのだ。

今までの私なら、それで終わり。

相手を非難して、自分の意見は正しいと思っていて、私はそうしないようにしよう、と思って終了する。

だけど、これって、ジャッジだよね。

相手は悪い、と思ってラベリングしている。

自分は正しい、と思って、正義という沼に浸っている。

私、こうやって無意識のうちに、人をジャッジしているのだ。

本当は、人を、ジャッジする必要なんて、ないらしい。むしろ害になっている。

もっと言えば、他人だけでなく、自分のことも、ジャッジする必要なんて、ないらしい。

私は、無意識に、人も自分もジャッジしている。

「あんなことをするなんて、浅はかな人だ」とか

「こんなこともできない私は、なんてダメなんだ」とか。

そして、ここからだ。ここから私は、はたと困ってしまう。

私は、人や自分をジャッジするのをやめたいと思う、そこまではいい。

なのに、じゃぁどうしたらいいのか、が、よくわからないのだ。

こういう時、何を手放したらいいのか、具体的によくわからないのだ。

人をジャッジしないとは、どういうことなのか。

横断歩道のない道を子連れで渡るお母さんを見た時、

「わ、危ないな。」という「事実」を思うのはOKで、「なんて非常識な人なんだ」とか相手を批難することは思わないようにすればいいんだろうか。

「わ、危ないな。」で終わり、「横断歩道まで行けばいいのに」など、自分の正義感を相手に押し付けないようにすればいいのか。

多分、行動としては、そういうことなんだろうけど、これでは、私の中の何も手放せていない。

また、自分の行動を縛り付けるルールが一つ増えるだけだ。

もっと、根本的に、自分の中のいらない価値観を見つけて手放さないと。

何が、いらない価値観なんだろう。

どんな価値観があるから、私はそうやって、人をジャッジして自分の正義感を押し付けようするんだろう。

正しい人でありたいから?

人より優れていたいから?

正しい人だと思われたいから?

人に認められたいから?

立派な人だと思われたいから?

なんとなく、私は、他人の目を気にしているのではないかと感じた。

怒られないように、他の人と違うことをしないように、なるべく目立たないように。

人と違うことをして、変な目で見られたり、注意されたりするのを避けなければいけない、と、内心、奥深くで警戒している。

おそらく、育てられてきた過程で、それが正しいことだと信じられて「教育」されてきた結果、

私は、周りとズレて自分だけ違うものになっていくことが根本的に、怖い。

怒られたくない、がっかりされたくない、認められたい、と心が枯渇しながら訴えている。

調和を乱すものは、良くないものだと染みついた認識は、私以外の人が調和を乱すことも許してはおけない。

アラートが鳴り響き、他人が調和の中に再び配置されない限り、放っておくことが難しい。

その「人と同じでないといけない」という間違った価値観が、他人と自分を苦しめている。

調和とは、皆が同一化していくことなんかではないはずだ。

もっと、自由で心地良いもの、であってほしい。

私はずっと、人と同じように振る舞い、出る杭とならないことが「和」なんだと思ってきた。

だけどそれだと、没個性であり、調和というよりも、ただの同調だったかもしれない。

本当の調和とは、個々が、それぞれのユニークさのまま生きても、お互いを邪魔せず補い合う、そんな世界のことを調和というのかもしれない。

その世界から見てみたら、今朝のお母さんを見た時も、もっと温かい気持ちがわいてくる。

「バカなんじゃないのか」と思うより先に、「何をそんなに急いでいるんだろう、1人で焦っているんだな」と感じるし、「子供がいるから、次は気をつけてね」とは思うけど、お母さんのことを問い詰めたい気持ちは少しもわいてこない。

もしかしたら、これも何か違うのかもしれないけれど、「ゆるし」の気持ちがわいてくる。

頭ではわかっていても、正しいことができないほど、余裕がない時があるよね、わかるよ、私もそういうことがあるよ。

と、目の前にいる、知らないお母さんを、許したくなるのだ。

そんなことを考えながら、私はまたひとつ思い出している。

「どんなに苦しい道に見えても、人はそれぞれ、それを経験したくて、その人生を選んでいる」という考え方だ。

この考え方は、それなりの説得力があると私は思う。

だから、他人を正そうとすることは、その人の人生そのものをコントロールしようとしていることであり、本当の意味ではその人から学びの機会を奪っているとも言えるのかもしれない。

そうは言っても、家族であれば、口を出したくもなるだろうし、命に関わるようなことなら、他人でも口を出したくなることもあると思う。

「善意のおせっかい」が、人を救う時もあるのではないのか?

なんだけど。

そうは思うのだけど、「善意のおせっかい」というものは、やっぱり案外、危険なものだろうとも思う。

それはいつしか、自分の正義の押し付けになり、異なる価値観を踏みにじるものになっていくかもしれない。

自分では善意のつもりだったのに、いつの間にか恐ろしい武器になっている可能性があるのだ。

そして自分では、それが武器と成り果て、他人を傷つけているとは思いもよらない。

いろいろと考えてきたが、いまだにまだ、よくわからない。

私は、何を手放したいのか。

簡単に人を「バカだな」と思ってしまうことを、傲慢だから手放すと思ってみたところで、根っこにある何かは手放せていない。その正体さえ、わかっていないのだから。

手放したいと思うのは、調和だと勘違いして大切にしてきた「同調」だ。

人と合わせる見えない同調圧力は、結果みんなが苦しくなるから、もう手放したらいいと思う。

誰かが、自分も含めて、人と異なる個性があることを、ゆるしたい。認めたい。

「同調」を重んじて、人と違うことを間違いと思うのではなく、人と違うことに喜びを感じられる私でいたい。

そして、「同調」も手放したいものだけど、実は、本当の根っこは、そこじゃないことにも気づいた。

本当の根っこは、同調圧力ではなく、「人と違ってはいけない」という恐れだ。

「人と違うことをして、和を乱したら、愛されなくなる」という思い込みだ。

私は、人と違うことをして和を乱してしまい、人から嫌われ、避けられることを恐れている。

私が、本当に手放したくても手放せていないのは「人と違ったら愛されない」という強い価値観だった。

考えてきた結果、私は、人と人が違うことを恐れるよりも、人と人が違うことこそ、この世界の豊かさなのではないかと信じられるようになってきた。

もちろん、自分の心に余裕がなく、そんなことを言っていられない時もあると思う。

そんな時は、まず、誰よりも先に、自分のことを許してあげようと思う。

頑張っているんだね、と、自分で、自分を、認めてあげる。

人に皮肉を言いたいくらい、心がトゲトゲしている自分のことを全力でゆるし、それくらい大変だったよね、と認め、思いっきり自分を甘やかしたい。

そうして、自分を、まず第一に、幸せにしよう、と改めて、心に決めた。

人をジャッジしてしまう理由、私と夫で全く違った話
私は、ジャッジを手放そうと努力している最中である。先日、自分のジャッジの原因というのは、心の奥底に「人と同じでなければ、愛されない」という間違った思い込みがあるからだと学んだ。人をジャッジしてしまう原因というのは、多かれ少なかれ、てっきり皆…