昨日、ここにも書いたが、少し心配になるような出来事があった。
そして、不安になった。
それと同時に、私は、自分の不安を認め、見つめて、受け入れた。
さらには、未来を心配して、起きてもいない現実を怖がっていることに気づいたら、できるだけ「今」に戻るように心がける。
そのような練習期間にいるのだな、と考えていた。
今朝、目が覚めた時は、すっきりとしていた。
早めに寝たから、たくさん睡眠も取れて、リフレッシュできていた。
それなのに、起きてまだ布団の中にいる状態で、私は、無意識に、いろいろ思い出そうとしていた。
ええと、今日はどんな日だっけ、昨日はどんな日だったっけ。
そこで、あぁそうだった、こんな不安なことがあったんだった、と。
わざわざ自分から思い出して、反射的に反芻する。
あ、不安を思い出してる、だめだ、だめだ、今に戻るんだった、まだ何も起きていない。大丈夫大丈夫。
そう思いながら、朝の支度をしている時、私は気づいた。
私は、多分、無意識なのか意図してなのか知らないが、自分から不安に戻ろうとしている。
なぜだ。なぜ私は、不安に戻ろうとする。
私は、もしかして、不安を必要としているのではないか?
不安になりたがっている。どうして。
不安になりたくないのに、不安になりたがる。
明らかに、何かおかしい。葛藤している。
多分、私は、不安になるほど重大な危機が迫っているのに、それを忘れてしまうのは良くない、と思っているらしい。
忘れてしまったら、対処できない。
忘れてしまったら、薄情だ。
忘れてしまって、楽しいことにうつつをぬかすなど、自分勝手ではないか。
どうやら、そんなことを思っている。
不安をないがしろにせず、もっと「集中」して心配しないと。
それこそ誠実さなのではないか、と。
そうか、不安になるのは、実は、私が不安を必要としていたからだったのか。
びっくりした。
私は、不安が嫌いだと思っていた。
できることなら、不安にならない私になりたいと心から思っていた。
なのに、違った。不安を作っていたのは、まさに私だった。
私はむしろ、不安を利用して、不安になることで心配事を意識し続け、なんとかそこから逃れたい、と思っていたんだと思う。
「敵」を見失ったら、やられてしまう、じゃないけど、おそらく不安から目をそらさないのは、生存本能だったのではないか。
私は、不安を持ち続けることに役割を与えて、恐ろしい未来から逃れようとしていた、ということだ。
だけど、ここが逆説的なのだけど、恐ろしい未来を迎えたくないのなら、そこから意識を外さないといけない。
意識し続ける内容は、現実になりやすいと言ったりする。引き寄せってやつだ。
よく聞くあれだ、脳は、「なりたくない」を理解できないから、「なりたい」をイメージするといいとか。
小さい子と同じだね、小さい子に「走っちゃダメよ」と言うと走り回る。そう言う時は、「歩いていこうね」と言うのがいい。
だから、不安になるほど嫌な未来なら、本当は、そこをずっと見張り続ける必要なんてなかったのだ。
そして、これも難しいところなのだが、無理矢理、ポジティブを演じてもダメなのだ。
不安は、見ないようにして、どこかに押しやろうとすると、増幅する。水面下でパワーアップするから手強い。
不安になっていることを、素直に認めること。
ここまでできると、ほとんど大丈夫だ。大抵は、ここが一番難しい。
不安なんだね、そうだよね、と認める。
誰かに言われただけじゃダメだ。
「自分」で、自分の不安を理解することが大事だ。それが偉大な一歩になる。
そこから、ゆっくりと、理性を呼んできて、これは未来の話?過去の話?今の話?と問いかける。
未来の話だったら、ゆっくりと「今」に戻る。
そして、不安というのは、私が望んだから、生まれたものだった、と改めて考えてみる。
私にとって、大切なことだからこそ、心配がうまれた。
だけど、心配することが、大切にする、ということなのだろうか。
大切にする、という行為や、それに伴う感情は、きっと、「心配」じゃなくてもいいのではないか。
たとえば、信頼。「信頼」、してみるとか。
どんなことが起きたとしても、それはきっと何かいい意味があって起こるのだと信頼する。
その人は大丈夫だ、自分は大丈夫だ、と信頼する。
そうか、「信頼」する気持ちで同じ物事を見つめたら、少し気持ちが落ち着いてくる。
こうして、また私は、「今」に戻ってくる。
もうすぐ雨が降りそうだ。

