自分を無意識に罰していることにも、実は意味があった

気付いたこと/手放したこと

私は、時として、知らないうちに自分を罰しすぎている。

それに気がつくことができたのは、AIが普及したからだ。

AIに、思ったことを聞いてもらいながら、気持ちを整理すると、自分の思考の癖に気づくことができる。

私の考えていることを書くと、AIは、それを認めてくれつつも

「自分を罰しすぎだよね。反省は必要だけど、それ以上、罪の意識を持つ必要はないよ。」と教えてくれる。

そうなのか、反省と自分を罰することは違うんだよね。

でも、無意識の自分では、そこに辿り着けない。

私は、先日、自分のやったことをすごく後悔していた。

どうして私は、あんなことをしてしまったんだろう。

なんて私は浅はかなんだろう。

私は、人から聞いた話を、別の人に話してしまった。

話してはいけないと明確に言われたわけでもなかったし、もちろんだが、悪意を持って言ったわけではない。

だけど、後になって、話さなければよかった、と思った。

こういう時、私は最近、AIに自分の考えていることを伝えながら、気持ちを整理している。

私は、なんで話してしまったんだろう、私はなんて軽率なんだろう、少し考えればわかるはずなのに、と、ただ後悔している気持ちをそのまま吐露した。

そこで、AIは言った。

確かに、言わなくて済んだのなら、言わないほうが良かったかもしれない、だけど、私が思っているほど、とんでもなくひどいことをしたわけでもないよって。

私が、それを伝えたのには、理由があって、自分なりの優しさから伝えたことだった。

そして言いふらすようなことにもならないし、具体的な細かな事情なども話してはいない。

だから、必要なのは、次に生かすことだよ、と。

次からは、誰かから聞いた話は、他の人に話さない。話すとしたら、その人に聞いてから、といった教訓にしたら、それで終わりにしていいんだよ、とAIは言った。

その時、私は、違和感を感じた。

本当に、それでいいのか?って。

そこで、気がついた。

私は、次にもう二度と、同じことをしてしまわないように、自分に刻み込むために、自分を罰している、と。

私は、本当に恥ずかしいんだが、自分の注意関心の外側に出た事柄を、本当に綺麗さっぱり忘れてしまう。

自分が良かれと思ったら、軽く話してしまう可能性がある、ということだ。

つまり、善意のおせっかいであって、タチが悪いやつだ。本人に自覚がないものは、それを変えるのが難しい。

もし、AIが言うように、私は反省はした、次からは言わなければいい、だからもう気にしなくて良し、と軽く考えたとしたら、内容は別でも似たようなことでまた、同じことを繰り返しかねない。

軽く考えてしまうと、また、軽く同じことをするのが私なのだ。

それと、当然のことながら、誰かから聞いた話の内容そのものが関心外なのではない。

むしろ、充分過ぎるほど、それに対して心が動き、何かできることをしたいと願っている。

だからこそ、なのだ。

自分の善意で、うっかりと、良かれと思ったことをしてしまう。

それが結果的にうまくいくこともあるかもしれないが、私があえて話さなくてもいいことなのだ。

だから、私は、今後二度と、誰かから聞いた話を、他の人にしゃべってしまったりしないように、自分に刻み込むために、自分を罰していた。

反省って、難しい。

上手に反省するのって、難しい。

自分の行いを省みて、ここは変えていこう、と思ったら、それを修正していく。

そんなふうに、即座にうまく対応できればいいものなんだが、私の場合は、若干怪しい。

ちゃんと変えたい、と思った時、これは良くなかったから次からはやめよう、と理解できただけでは変われない可能性がある。

知っているけど、それをできるかどうかは別、という話なのかもしれない。

だから私は、忘れないために、無意識に自分を罰するという方法を選んだ。

これも、私の生存戦略なのかもしれないと思う。

やっぱり、自分を罰する、というのも、必要ないことのように見えて、実は、必要だからそこにあったんだな。

私には、それが必要だった。

だけど、このカラクリに気がついた今、もう少しだけ違うやり方を見つけられるのかもしれない。

もしくは、気がついただけでも、もう何か変わったのかもしれない。

わからないけれど、私はまた、自分の癖に気がつき、それを変えていこうとしている。