小説家は、「なろう」と決めないとなれない

心の模様

最近、ブログに書きにくいことが増えてきた。

ブログを書くのは楽しい。毎日、相変わらず誰も読んでいないけれど、書くのが楽しくて仕方ない。

静かにワクワクしているといったところ。

それに、心を動かす出来事や気づきも多い。

といっても、何か劇的な出来事が起きているというよりも、年齢を重ねたら誰にでも起きるような日常から、私は自分の内面に潜っていき、そして何かを掴んで上がってくる。

そんな毎日になっている。

それを、本当は書きたい。

だけど、それらをブログとして書くには、あまりにも生々しかったり、具体的すぎたりする。

要するに、気づきに至る現実の出来事が、自分だけではなく、私以外の誰かの人生の比重が大きくなっているのだ。

そういった内容を書きにくいし、でも一番、書きたい。

さらには、そうした深くて重い話だけではなく、軽い話ですら、誰かが登場して、それを書いていいのかさえわからない。

もちろん、名前や個人が特定される書き方はしないにしても、だ。

だけど、私は、本当はそれらを、書きたくてたまらないのだ。

こんなことがあった。胸が痛くなった。

涙が出た。悲しかった。

でも受け入れることにした。それってなんで。

こんなことがあった。胸がジンとした。

ありがたかった。感謝した。

こういうのもいいな、と思った。幸せってこういう瞬間かな。

そういう、いろいろを記録したい。

特に目立つような人生じゃない私でも、心を動かす出来事っていうのは、たくさん巡ってくる。

それらを丁寧に見て、書き留めたい。

私は、書きたいのだ。

小説を書いてみたいと思う。

最近、少しだけ、そう思う。

だけど、小説家、となると、急に大層なものに感じられて、私なんて、と急に小さくまとまろうとする自分がいる。

小説家というのは、本人が、「なろう」と決めないことには絶対になれないものだろうと思う。

誰かに、「お願いですから、小説家になってください」と言われるものでもなければ、

小説家検定1級をとったからなれるものでもない。

逆に言えば、なろうと決めて、小説を書けば、それは小説家なのでしょう。

私の場合は、一番大切な、「小説家になろう」という決心がない。

小説家には憧れる。

書くのが大好きな私は、書くことを人生の仕事として生きられたら、最高だと思う。

それなのに、思い切れない。

私には、うまく書けないかもしれない。

誰にも読まれないかもしれない。

そういう、他者目線が邪魔をしている。

もっと自分目線で生きろ。

自分の人生を生きろ。

どうせ、初めて書く小説なんて下手なものだ。

最初から上手く書かなきゃと思うから書けなくなる。

下手でもいいから、書きたいと思ったものを、文章にぶつけてみて、誰にも見せずに何度も書いたらどう。

誰かに見せたら、批評されるだろうから、見せなくていい。

私は、書きたいのだ。

自分の中の、感情を、文章として書きたいと願っている。

そんな気持ちが、いつか動き出すかもしれない。

まだ、くすぶっている。