私たちは、毎日、誰かをジャッジしている。
自分のこともそう。誰かのこともそう。
当たり前すぎて、どうやってそれをやめたらいいのか、最初は気づこうにも気付けない。
ほんとは、誰かをジャッジする必要なんてなかったのだ。
よくそういうことを耳にしたけど、最近ようやく、私もその通りだなと思うようになってきた。
だから、気づくたびに、そっと手放している。
今までありがとう。
ただ、何度、手放してきても、まだ私の中にありました、という話をしようと思う。
多分、まだまだたくさん、私の中には、ジャッジが埋まっているのだろうな。
自分の中のジャッジに気づいて、それを手放す。そこまではいい。
それを、ここにも書いておきたいと思うものの、あまりに自分が恥ずかしすぎて、本当は書くのをやめて隠したいくらいなのだが、そんなことほど書いてしまおうと思う。
そんな自分すらも、認めて、許して、それも含めて私なのだ。それでいいと。
私は、完璧な人間ではない。だけど、それでいいんだ、ということにしよう。
ジャッジに気づいたのは、帰省シーズンだった。
あまり顔を見せなくなった親戚の話を聞いた。子供が大きくなったし、そういうものかもしれない。
だけど、どうやら、ほかの場所には出かけていくらしい。
帰省を待つ側の人が、「今度のお正月も来ないんだって。だけどいいの。」と言っていたらしいが、私は、少し気の毒に感じたのだ。
孫に会いたいんだろうなぁって、私は勝手に思ってしまった。
ちょっとだけでも、会いにいけないのかな。
お正月でもそれ以外でも、行ってすぐ帰っても、挨拶だけして、顔を見せて、弾まなくなった会話でもして、お茶を飲んで帰る、それくらいの時間取れるんじゃないの。
だけど。
これは、ジャッジだ。
私は、人を評価している。決めつけている。
私が挨拶に行きたいのなら、行けばいい。ただ、それだけの話なのだ。
それを相手に押しつけてしまっていた。
それに、だ。
私は、その人たちの何を知っているというのだろう。
帰省しない人と、それを待つ人との関係も知らないし、どういうやりとりがあったのかも知らない。
何も知らないのだ。
知らないのに、勝手に、自分と同じ境遇だと決めつけている。
さらにその前提で、自分が正しいと思う価値観を押しつけている。
もしかしたら、誰かの具合が悪くて、行きたいけど行けないのかもしれない。
行けないけれど、頻繁に電話や手紙でやり取りしているのかもしれない。
もしかしたら、お金がなくて困っているのかもしれない。
それにそもそも、たとえ、そんな理由ですらなく、ただ行きたくないというだけの理由だったとしても、それをどうして批判するんだろう。
どうして批判してしまうんだろう。
みんな、それぞれが、目の前の人生を、懸命に生きているのだ。
それは、私の人生の道ではなく、その人の道なのだというのに、割り込もうとする。
それにそもそも、私にだって、遠いから、なかなか会いに行けない親戚がいる。
自分のことは、事情があるから会いに行けないけど仕方ない、と思っていながら、人には「こうすべき」という価値観を押しつけていた。
私には、こんなひどい価値観があったのだ。
親戚には、ちょくちょく顔を出して挨拶した方がいい、とか、
さらには、帰省を待っている人は来ないと寂しいはずだ、というのも勝手な思い込みだった。
本当に寂しいかもしれないし、本当は、実はそうでもないのかもしれない。
こんな価値観は、もういらない。
本当は、いつ、誰が、誰に会いに行こうが、自由なのだ。
来てほしくて叶わないとしても、その寂しさを享受するのも自由なのだ。
…あれ?
何かおかしいような気がする。
私は。
今度は、私を、
ジャッジしている。
親戚に会いにいけばいいのに、と思った私は、「恥ずかしい私」だから、ブログに書くのをやめたいくらいで、
「ひどい価値観」を持っていて、
そんなジャッジをしていた私は、「そんなものは手放さないといけない」と自分を一生懸命、罰している。
私は、人をジャッジしている自分を、
巧妙に、自分自身に気づかれないように、ジャッジしている。
本当は、そんなに神妙に、懺悔しなくてもいいんだ。
違うな、と思ったら、それを手放す。
それだけでよかったんだ。
そんなに、自分を裁かなくてもいい。
こうして自分に気づかれないように自分をいじめてきたのも、もう終わりにしたいな。
私は、すぐに、自分を責めて裁こうとする。
だけど、今日また、それに気がついた。
気づいた私は、それらの私も全部含めて、まるっと「私」として、くっつけてしまえばいいと思っている。

