人をジャッジしてしまう理由、私と夫で全く違った話

気付いたこと/手放したこと

私は、ジャッジを手放そうと努力している最中である。

先日、自分のジャッジの原因というのは、心の奥底に「人と同じでなければ、愛されない」という間違った思い込みがあるからだと学んだ。

ジャッジすることをやめようとした私が、最後にたどり着いた恐れ
今朝、私は、夏休みの子供達と夫をあちこちに送り届けるために、時間に追われて焦っていた。そんな時、また自分に「手放したい感情」があることを教えられる出来事がおきた。今日も無意識に、人をジャッジしていたのだ。私はそこから、「ジャッジしないとはど…

人をジャッジしてしまう原因というのは、多かれ少なかれ、てっきり皆、同じ理由なのだと心のどこかで思っていた。

それが、今朝、夫と話していたら、夫は私とは全く違う理由で、人をジャッジしていたことがわかった。

「そんな理由で人をジャッジしてしまうこともあるのか」と、私は軽く衝撃を受けた。

人は、あまりにも違う、と改めて思うことになった。

そんな、私からは絶対に出てくることのない思い込みからの、ジャッジメント。

その興味深い内容を、ここに書き残しておきたい。

他人をジャッジしていることに気づくことになった出来事

夫が、人を不要にジャッジしていることに気づくきっかけとなった出来事について説明したい。

夫は、昨日、夏休みの息子を連れて、朝から2人でプールに出かけていた。

楽しく2人で8時間もプールを満喫し、今朝は疲れが残りつつも、気持ちは充実していた。

昨日の様子を楽しく聞いていたが、その終わりに、実は若干、モヤモヤする出来事もあったのだと言い出した。

プールは、とても混雑していて色々な人がいたという。

その中には、ヤンキーなのか、マイルドヤンキーなのか、そう感じさせる人もいたらしい。

見た目は金髪で、親はともかく、小さな子供の髪の毛も金髪にさせていたらしい。

それを見て、「こんな髪で、学校はどうしてるんだろう」とか、「ヤンキーの子は、ヤンキーになってしまうのか」といった、いかにも不届きな(笑)、とても人には言えないことを内心、思っていたそうだ。

だけど、そう思ってしまう自分に、自分で何かモヤモヤしている、という内容だった。

なるほど、と思った私は、「そういう時あるよね」と言いながら、私も最近、似たようなことがあったよ、と、私が人をジャッジする原因がなんだったのかを話した。

すると、夫は、私の話を聞きながら、自分に何が起きていたかがわかり、納得したらしい。

夫が人をジャッジしていた原因は

夫の話は、こうだった。

私の話を聞きながら、夫は、私とは違うところに原因があるとわかったという。

私の場合は、「人と違うと、愛されないかもしれない」という思い込みだった。

夫の場合は、

「自分が正しい」という思い込みと、

「自分は愛されるに決まってる」という思い込み。

「自分が正しいと思ってしまうし、それに人は自分のことが好きなのだ(好きになる)と思ってしまう」という、

なんとも王様みたいな理由なのだ。

だから、自分と違う人がいると、その人は間違っていると思ってしまうのだと。

その理由に、私は正直驚いた。

そんな私と真反対のことを本気で思っている人がいるなんて。

ただ、夫の性格を考えてみたら、信じられないというほどのものでもなく、「あぁ、そうだろうね」とは思う。

そして、学びになったのは、そこじゃない。

私の場合は、「人と違うと、人から愛されないかもしれない」という不足感や、自分への無価値観から、「ジャッジメント」が生まれていた。

だから、てっきり、自己愛や、自己肯定感の高い人というのは、そんな問題がないと思っていたのだ。

親から適切に愛されて、自分を大切に思える人であれば、こんな不足感を感じることもなく、なんの問題もなく育っているんだろう、と信じて疑わなかった。

それが、そうではなかった。

自己肯定感が高くても、それが故に、自分が絶対的に正しく、そこから外れる人は間違っている、と思ってしまうのか。

それも、結構、無条件に、強く思い込める。

それだけ、自分を信じられるパワーを持っている。

となると、もしかしたら、「自分を信じられない人」とは別の意味で、「自分が正しいと信じている人」が、誰かをジャッジメントする心を手放すのは難しいのかもしれない。

自分を愛せなかったり、信じられないタイプは、自分をゆるしたり、自分の直感を信じていくステップが難しい。

逆に、自分を無条件に愛せるタイプは、自分が絶対に正しいという揺るぎなさを疑うプロセスが難しい。

この話をしていく中で、夫は、自分の中にあったモヤモヤの正体がわかり、それを手放したいと言った。

そして「とはいえ、また同じことをしてしまい、なかなか手放せないんだろう」とも言った。

私は、それは違うと思う。

手放していきたい不要な思い込みは、玉ねぎのようなものなのだと思っている。

つまり、手放したと思ったら、また別のが出てくる、そしてまた手放していく、その繰り返しなのだ。

だから、その度に手放せてはいるのだ。決して、手放せていないわけではないのだと思う。

夫に、聞いてみた。

「そのいらない思い込みを、手放したとするじゃない。

そうすると、昨日プールで出会った人たちへの感情って、どんなものになった?」と。

その答えは、こうだ。

「全然、違くなった。

あの人たちは、自分よりも、家族で過ごす時間が長いのかもしれない、とか

仲間を大切にする人たちなんだろうな、とか

昔からの付き合いを変わらず大事にできる人なのかもしれない、とか

いい面が見えるようになった。

前までは、知らないうちに、自分が勝てる面しか見ようとしていなかった。

そして相手は劣っていると思ってしまっていた。

今は、世界が広がった感じがする。」

瞬時に、ここまでモヤモヤを手放すことができるのは、すごいことだなぁと思った。

人は、それぞれ、自分の道の中で、学びを重ねているのだ。

私は、「人をジャッジする心」というのは、「人と違うと愛されない」という思い込みがあるからだと思っていた。

だが、人によって、ジャッジメントが生まれる理由そのものが違うのだ。

そして、人を、自分の間違った思い込みでジャッジしなくなると、その相手を、より多角的に見ることができるようになるみたいだ。

それと同時に、もう一つ、思い至ることがあった。

私はよく、「愛されながら問題なく育った人は、人生がうまくいきやすい」と無意識に思ってしまうが、これも本当は、ただの思い込みかもしれないということだ。

ただの被害妄想で、ただ羨ましいだけだったのかもしれない。

私から見て、順風満帆に見える人にとっても、その人にとっての学びがあり、手放す何かがあるのだろう。