「あきらめ」ではなく「受け入れる」という覚悟

心の模様

先日、父にセーターを送ったら、サイズもピッタリで嬉しいとセーターを着た写真を送ってくれた。

写真の父は、いつの間にか歳をとったなと感じて、切なくなった。

白髪が増えている。

だけど、よく見ると、顔の艶があって、血色もよく、そして何より前よりも優しい瞳で微笑んでいる。

よかったな、と思った。

きっと今、幸せなんだろうな、と思った。

私と父との関係は、少しだけ複雑で、私はその写真を眺めながら、もしかしたらもう二度と父には会えないのかもしれないと思うと、無性に悲しくなった。

私が望むようにはならなかった。

だけど、今となっては、それが望みだったのかどうかもよくわからない。

私は、父にそばにいて欲しいと思って、父に執着していた。

私の父でいてほしいと願った。

だけど、父には父の人生がある。生き方がある。

私は、ひとしきり悲しさを味わった。

そして私は、父を丸ごとそのまま受け入れることにした。

父がどんな判断をしても、父は父だ。

私は、やはり父を父だと思っている。

それでいいのではないか。

たとえ、もしも、このままもう会えないことになったとしても、だ。

私は、父をそのまま受け入れるためには、どうしてもそんな覚悟を必要としていた。

もう会えないかもしれない、という悲しい覚悟をしない限り、受け入れることは難しかった。

私は、そして、父をそのまま受け入れることにした。つまり、覚悟をした。

私にはわかるが、それは決して「あきらめ」ではない。

全く違う。

たとえば、父を自分の思うようにできなかったから、父がどうなろうともあきらめる、という場合、心の距離が開いていくと思うのだ。

父への愛情や、愛着も、少し手放していくだろう。

私の人生から、少しずつ、父の影が消えていくのだろう。

だけど、「受け入れる」の場合、同じように会えなかったとしても、全く違う。

父が、どんな選択をしても、たとえもう会えなかったとしても、私にとっては父は父で、大切に思っている。

大事だと思うからこそ、その選択を尊重したい。

そして、私は、自分の気持ちの寂しさを否定しない。

全てをそのままの状態で受け入れる覚悟だ。

もう会えないかもしれない、と思うと、悲しくてたまらなかった。

だけど、それを受け入れてみたら、不思議と心が定まった。

心が定まったら、それでも私にできることをしようと思えた。

父に連絡をした。

「来年落ち着いたら、近くまで行くから、あそこの美味しいレストランに一緒に行こう」

すると、「了解」という短い返事がきた。

受け入れた今では、「どうしてあの時」とか「うちにも来てよ」とか、そういう言葉は出てこない。

そういった思いは、もう必要なくなった。

あきらめではなく、受け入れ。

ここから、私と父の新しい関係がスタートするのかもしれない。